2005.「リビエールが贈るユーロの花束」 
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オランダ王国
Kingdom of the Netherlands

日蘭:花卉球根と球根植物400

チューリップの起源
ジャガイモ トマト タバコなどの他の多くの産物同様チューリップは外国から来ました。チューリップの起源は、西アジアおよび中央アジアのステップや高原に見出すことができます。とりわけ標高2000m以上の天山山脈やパミール山脈の険しく岩の多い斜面などはチューリップの生育に大変適していました。そこでの気候は冬は比較的寒く湿気が多く、夏は暑く乾燥しており、春は短いという型がおおよそで,これらの山脈地帯からは野生種がアジア大陸の大半 中国や蒙古の奥にまで広がりました。
もう一箇所、野生種の自生に環境が適していたのはコーカサス北方のステップおよびカスピ海と黒海南沿岸に位置する地域でした。後になってチューリップは中央および南ヨーロッパの山岳地帯においても発見されました。
愛と情熱の象徴  
おそらく1000年頃、ペルシャとトルコの人々が自然的条件の中で発見されたチューリップの交雑育種を始めたのでしょう。交雑育種は献身的に行われ、ほどなくチューリップは大きな人気を獲得しました。チューリップはすでに12 13世紀のペルシャの詩人達から多大の賞賛を受け、また画家たちによって描かれました。
したがって、この愛すべき花の出現が多くの伝説の創造に至らせたのも不思議なことではありません。ペルシャにおいては、例えば赤いチューリップは長い間情熱的な愛の象徴とされてきました。 当時の伝説の一つにペルシャの王子がたいそう美しい王女にたいそう恋焦がれていたという物語があります。ある日、王子は愛する王女が死んだという知らせを受け取りました。ひどく動転した王子は馬にまたがり、高い絶壁にそって疾走するうちに自分自身の死に遭遇します。馬がつまずき、王子は峡谷に転落したのです。王子の多くの傷から血が地面にしたたり落ち、血の一滴一滴から彼の献身的な愛の象徴である真紅のチューリップが生えたのです。

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オランダ最初のチューリップ  
16世紀 チューリップはトルコ宮殿の庭園で卓越した地位を占めていました。18世紀に至るまでサルタンが全費用を負担し、毎年大々的に伝統的なチューリップ祭が行われていました。当時、チューリップは富、権力、尊敬の代名詞でした。チューリップという名はターバンという言葉のトルコ語、ツリバン(tulipan)がなまったものです。この語はまたトリバン(toliban)とも書かれていました。いくつかのチューリップがターバンに似ていると想像するのは決して難しすぎることではありません。ツリバンのラテン語訳のチューリバン(tulipan)がチューリパ(tulipa)になりました。現在ではそれがチューリップの植物学上の正式な名称となっています。
チューリップはオランダ人ウシェー・ギスレイン・テ・ブスベク(Ouqcter Chislain de Busbecq )によって16世紀半ばに始めて西ヨーロッパにもたらされました。ブスベクはフェルディナンド一世によりコンスタンチノーブル(現在のインスタンプール)のサルタン スレイマン二世の宮廷に派遣された。いわば王の大使でした。当時、コンスタンチノーブルはアフリカ北沿岸およびバルカン諸国から遠くアジアにまで広がるオスマン帝国の首都でした。ブスベクはいくつかのチューリップの球根を彼の友人でブラハ、そしてのちにはウィーンで皇帝のハーブ園を管理していたシャルル・ド・レクリューズ(Charles de Vecluse 別名カロルス・クルシウスCarolus Clusius,1526—1609)〔当時自分の名前をラテン語名で名乗ることが流行した〕に贈りました。宗教的、信仰上の理由でクルシウスはウィーンで働き続けることができなくなりました。彼がプロテスタント信仰に対する寛大な態度が支配的であったオランダに去ったのもそれが原因でした。1593年ライデン大学の植物学の名誉教授に任命された後、彼はチューリップ球根(あるいは種)を持参し、ライデン大学の学術用庭園である植物園(ホルトゥス・ホタニクス)で学術的目的の栽培を続けました。クルシウスは新たに紹介された植物を科学的、かつ系統的な方法で記述した最初の植物学者の一人です。したがってこの大学の庭園はヨーロッパの植物学研究の中心となりました。
当初チューリップは薬草としての特性を持つと信じられていました。17世紀の初頭チューリップが主に薬草園で見出されたのはそのためです。したがって、植物園(ホルトゥス・ボタニクス)は医学生の研究用庭園の役目も果たしていました。様々な植物の薬効について大学の教室ではなく、庭園で学生に講義するのが当時の教授たちの習慣でした。現在でもオランダの製薬業界は球根に関心を持ち、球根の含有する物質を調べており、これらの物質が新薬に使用される可能性も存在します。
営利目的のチューリップ栽培の開始  
開花中のチューリップの美しさはたちまち注目されるところとなり、その花は大変な人気を博しました。貴族、高官、富裕な商人たちは、この豪華な花を熱心に所望しました。このようにして、オランダでもチューリップは権力と富のステータス・シンボルとなりました。1600年頃、小規模な営利目的のチューリップ栽培がハーレム周辺の粒の粗い砂地のよく排水された土地で始まりました。栽培業者たちはとりわけ特殊な品種、新色の変種などの栽培に専念しました。彼らは何とかして斑入りチューリップを栽培しようと試みました。トルコでもそうであった様に、とりわけ縁取りやストライプ入りで先端のとがった花形の品種が流行しました。 現在、私たちはこれらのチューリップを「レンブラントチューリップ」と呼んでいます。なぜなら、それらがオランダ絵画の巨匠達の手に成る多くの静物画に描かれているからです。(その他にヤン・ブリューゲル1世 ボスハート・デヘインなど)これらのチューリップ品種がウイルス病にかかっていることが発見されたのはようやく前世紀になってからのことです。

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チューリップ狂時代(チューリップマニア)  
チューリップの歴史上、はなばなしい時代とはチューリップ狂時代(チューリップマニアtulipomania)あるいはチューリップ投機の時代です。1635年からチューリップ取引ははなばなしい飛躍を遂げました。エキゾチックなチューリップに天文学的金額が支払われました。価格が高騰し、花卉球根が投機の対象となりました。お金で支払えないものは物で支払いました。たとえばセンベル・アウグストゥスなどで見られたように1個の球根に1000オランダ・ギルダー以上が支払われることも例外ではありませんでした。当時それは財産でした。たった1個の球根が小麦2(荷車2台分)ライ麦4荷、肥えた豚8頭、肥えた羊17頭、ぶどう酒の大たる2個、ビール35リットル、バター容器2個、チーズ1000ポンド、ベット1台、銀のカップ、ウーステッド1梱と取引されたことはよく知られています。
富める者も貧しい者も投機を始め、花卉球根は投機の対象となりました。最初はまだ花卉球根自体が取引されていました。しかし、やがて誰かが自分の所有していない球根を売り始め、もう一人は支払うお金もないのにそれを買いました。秋には春にならなければ開花しない花卉球根が取引され、チューリップを見たこともないのにそれらの名称は全部正確に知っているものが大勢いました。実物のチューリップを見る必要はありませんでした。というのも、結局は原価と売値の差額が支払われていたに過ぎないからです。
しかし相場の急騰は必至でした。事実、16372月チューリップ投機は破綻しました。投機欲が頂点に達したのは、何百人もの一般市民たちが宿屋に群れ集い自分たちが所有したり配達したりしたいと望みもしない花卉球根を売買していた頃です。これらの取引は通常の市場以外で行われました。バブルがはじけ、狂気じみたチューリップ取引は突然もろくも潰えました。相場が暴落し、価格が急落し、皆は必死になって自分たちの花卉球根を売ろうとしました。かくして大勢の投機家たちが財産を失いました。彼らはすっかり落ちぶれはて、巨額の負債のみが残されました。その滑稽なまでの高価格のゆえに、1635年から1637年の間のこの時代はチューリップマニア時代(チューリップ狂時代)として知られています。
しかし、チューリップが人気の高い花卉球根であるということには変化がありませんでした。時の流れとともに取引が回復し、価格は安定しました。19世紀半ばまで、チューリップの球根は高い代価を支払わなければならない贅沢品であり続けました。球根植物は少数の幸せな人々の特権としてとどまり、小市民の手には届きませんでした。  

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